「コロナと生きる知恵」について:レジリエンスの視点から
「コロナと生きる知恵」についてお題をいただき、何を書こうかと頭を巡らす。2019年末からはじまったコロナは、変異を繰り返しながら今も尚、私達の前に立ちはだかる。コロナ感染するか否かだけでなく、コロナ以前に社会に横たわっていた社会問題が、コロナ禍の中で日増しに、顕著に浮彫りになっている。目に見えないところでその影響は測りしれない。果たしてコロナと生きる知恵を今、語ることができるのだろうか?もしできるとしたら、私が大学で教育に携わる中で模索しながら取り組んできたことや気づいたことを、その「コロナと生きる知恵」に結びつけることだろうか。そんな思いで今、筆をとる。
2020年の春からオンラインでの大学院授業が余儀なくされ、それ以前は使ったこともなかったZOOMでの授業がはじまった。私の授業は「レジリエンス」をテーマにしているものが多く、対話や協働ワークを取り入れているため、それをどうオンライン上で可能にするかが最も悩ましいことだった。SNS上の大学教員の交流の場では様々なツールを使った技術的な話題が飛び交う。そうした話題が気になりながらも、オンラインに授業に突入する前に心に決めたことは、普段大切にしていることを最優先に置くということ、また、できる限りシンプルにやるということだった。普段から大切にしていることというのは、一人一人の学生を大切にし、できる限り心を尽くす、そして双方向のコミュニケーションを大切にする、そのプロセスの中でその人の「気づき」に結びつく瞬間を待つということ。またシンプルにやるというのは、色々ツールを使っても、結局それに気をとられて最優先にしていることが疎かになってしまってはいけないし、複雑になりすぎて授業で「楽しい」という感覚を失ったら学生にも影響を及ぼしてしまうと考えられるからだった。
そしていよいよオンラインZOOM授業がはじまって、多国籍の大学院生が、一部不安そうな表情をしながら目の前にあらわれた。全員ZOOM上で顔出ししてくれればよいが、そうもいかない。顔出しするとネット回線が不安定になるとか、部屋の状況が分かってしまうからプライバシーを侵害されるとか、そういった色々な事情がある。だから気にしないふりをして、とにかく普段どおりの授業を開始した。顔が見えない学生にも、顔が見えている学生と同じように語りかけ、向こうからの反応を待つ、そして表情であったり、声のトーンに全神経を向ける。そうすると、どのように今話していることを理解しようとしているのか、どのように共振しているのか又はしていないのか、何かに戸惑っているのかが手に取るようにわかってくる。そうしたプロセスの中で、あるタイミングで本人の腑に落ちたとき、何か新しいことに「気づいた」とき、表情や発せられる声のトーンの変化が、いつも以上に鮮明に私自身に伝わってくるようになった。そのようにして、最初は恐る恐るであったオンライン授業も、多少オンラインだけで使うツールを使いながらも最小限にして、普段大切にしていることを中心に置くことで、手ごたえのあるものとなっていった。
こうした授業に加えて、2020年夏、それ以前から学内で企画してきた『屋久島における「木を見て森も見る」SDGs思考養成実践モデル事業 2020』の実施が、コロナ禍の中での私に大きくのしかかった。これは、単に学生向けの体験授業や交流ではなく、日頃「レジリエンス」をベースに取り組んでいることを底辺に置きながら、『「木を見て森も見る」アプローチを根底に据え、SDGsの目標群間の関係性を捉えることを重視し、京都大学UNESCOチェアの特別プログラムとして、自然・社会・人間システムを俯瞰する(「木を見て森も見る」を持続可能な社会に当てはめた考え方)思考力・協働デザイン力・実践力を養成し、国内外向けにSDGs達成担い手育成モデルを目指す』ことを掲げた、学内大学生・大学院向けの国際特別プログラムである。もともとは、選抜学生が屋久島に赴いてフィールドワークや協働ワークショップを中心にセッションを通して実施する予定であったが、コロナ禍の中で、現地行きは中止を余儀なくされ、プログラムの再構築をすることになった。
まだ現地行き中止が決まっていないタイミングで選抜20名枠で学内公募をかけたところ(学年関係なし・大学1回生から博士最終学年まで、専攻関係なく誰でもOK、但し全て英語で実施」という大胆な公募をしていた)、希望者は176人にのぼった。応募の際に提出されたエッセーを見ると、屋久島へ行くことへの、またこのプログラムへの期待感が満ち溢れている。屋久島行きを中止しなければならないと伝えるときはかなりの勇気が要ったが、このプログラムへの期待は裏切りたくなかった。私個人的にもレジリエンスの思考方法やアプローチをプログラムのデザインそのものに織り込み(このプログラムではレジリエンスを使わず「木を見て森も見る」に表している)、人材育成につなげていくという、長年構想していたことを形にするようやくの機会であった。このプログラムの趣旨をそのまま実現するためにどうやってオンライン上で実現するのか。フィールドに立ったときの五感を含めた現場感や臨場感も引き出すために、また協働作業をオンライン上で実現するためにどうするのか。多くのことが頭を駆け巡った。
しかしこんな時はとにかく一歩を踏み出して動き回っているほうが、可能性が開かれやすい。屋久島に拠点を置く研究者を頼りに屋久島に飛び、コミュニティの方々を紹介いただき、その構想をコミュニティのリーダーの方々に共有した。そこで理解や共感をいたいて、屋久島の方々と繋がることができた。そこから、屋久島の木々の匂いや触感を学生たちに伝えるべく、屋久島の方が屋久島の木々の破片を送ってくださったり、私自身がコミュニティの人々にインタビューして回ったり、「UNESCOオンライン屋久島スクール」用オリジナルの写真や映像を製作し、準備を進めた。同スクールは3日間かけて、現地の方々の多大な協力とスタッフの大きな支援を得て屋久島と京都を生中継し、構想していた「木を見て森も見る」プログラムそのものをオンライン上で実現した。
通常3日間朝から夕方までオンラインで参画するとなると、かなりのエネルギーと集中力がいるはずだ。だが20名定員のところオンラインの機会に門戸を開けたところ、最終的に50名近くの学生と現地の協力者・大学教員・スタッフが一同に会し、総勢80名ほどが3日間の双方向のコミュニケーションや対話、協働作業に参画した。学生はその工程で得た気づきを”i-poster”<internet(オンライン), interactive(双方向), insight(気づき), “I” (自分事)をかけて名付けた>を1枚で表現し、長丁場に幕を下ろした。さらに、選抜組についてはその後対面で、京都大学の施設で、素晴らしい日本庭園と屋久杉の天井をもつ和室も備える清風荘(西園寺公望の別邸として造られたもので、1944年に京都大学へ寄贈され、2012年に重要文化財に指定)に招待し、SDGsへのプロジェクト創りを、協働ワークを通して行った。
コロナ禍の中でこの特別事業を進める中での私の気づきは、大小スケールが違っても原点が大切だということ。つまり、オンラインの授業で大切にしたことと同じように、やはり、「一人一人の学生を大切にし、できる限り心を尽くす、そして双方向のコミュニケーションを大切にする、そのプロセスの中でその人の「気づき」に結びつく瞬間を待つということ」は、ここでも通用したと思う。オンラインであったとしても、こうしたことを可能にする環境創りが大切であり、屋久島の自然の環境は特にそれを助けてくれた。
ずっと上記の工程に参画し、国際性豊かな大学院生に混じって存在感を見せた日本人の大学1年生女子が下記のことを書き送ってくれた。
『今までの私は屋久島を「森」として見ていた。太古から残る自然、悠久の自然、そのような形容詞で屋久島を捉えていたとき、私の頭の中からは、そこに暮らす人々の存在が抜け落ちていた。実際には屋久島には人を含めたくさんの生き物が暮らしていて、田や畑、林業、芸術、観光などの人の営みによってわずかながらも常に姿を変えている。そのわずかな差に着目し、屋久島が示唆する可能性に気が付くこと。それが「木」を見ることになるのではないかと私は考える。』
こうしたことを振り返りながら、お題に戻って「コロナと生きる知恵」に結びつけて言うならば、「コロナ禍においても、思考力や協働力を互いに育みあうことは不可欠であり、人と人、人と自然、人と社会の繋がりを育むような環境創りが欠かせない。コロナ禍であらゆることがオンライン化しているが、ウェビナーでありがちな情報や知識提供一辺倒ではなく、そこに参加する一人一人と向き合う、自然の助けも借りた学びの場の設計が大切になってくること、そこから一人一人の気づきを引き出すような仕掛けが問われる」ということだろうか。そのためには、従来からのやりかたを見直し、こうしたコロナ禍の変化の中で大切な原点に戻って動きながらそのやり方を協働で磨き上げていく―そんなことが大切だといえるのではないだろうか。
在米日本大使館・野村総合研究所USA等で研究職を経て、現在京都大学特定准教授。2006年3月、Ph.D.取得(国際公共政策)。近著に『協働知創造のレジリエンス~隙間をデザイン』(京都大学学術出版、2015)、Resilience-based Public Policy in a Modern Risk Society (Springer, 2019)(Allen Clark との共著)がある。