巣ごもり生活の癒しは60年ぶりに再開した生け花

私流の生け花は絶好のメディテーション

私流の生け花は絶好のメディテーション

新型コロナウィルスの急激な広がりの中で、社会が停止した状況に置かれ、私が日本語を教えているメリーランド州の学校も、何の準備もないまま休校となった。最初の週は雪で学校が休みになるスノーデーのような気分で安堵と思いがけない休暇が入ったと、学生ともども喜んだのだが、それがアレヨアレヨという間に学年末となり、夏休みとなってしまった。でもその頃は新学年が始まる9月になれば、普通の学校生活が戻ってくると誰もが思っていた。

それから先は皆さんと同じように、さて、どうやってこの閉鎖された空間で仕事を家から続けるのかと深刻に考え、精神的な救いを求め始めた。家の中が仕事場であり、生活の場であり、楽しみを見出す場となり、新しい体験が始まった。家の中に目が行き過ぎて、掃除の回数が増え、断捨離を進め、それでもまだ、満足できない自分を発見した。そんな時に、遠くに住む子供が気を使い、生け花のキットを業者を通して送ってきてくれた。それが家で生け花をやってみるきっかけとなった。

生け花はずーーっと昔、お稽古に通ったことがあり、その時の記憶が戻ってきた。当時抵抗を示した私に母が言った言葉を思い出す。「機会があるんだから習っておきなさい。いつ役立つときが来るか分からないからね」――。まさかと思ったことが60年後に現実になった。毎週スーパーで買う花束を使って生け花を始めた。オンライン会議や授業に疲れた目と心の余裕を取り戻すための絶好のメディテーションとなった。

日本文化と生け花

ところで、生け花はいつ頃、日本の文化の中で始まったのだろうか。検索した記録と共に振り返ってみたい。生け花は平安の頃からあったが、プロの先生が教える稽古場が出来て、生け花が正式なものとして一般社会に知られるようになったのは、南北朝時代の池坊が最も古い流儀であり、お寺がその坊に花を生け始めたと書かれている。池坊は正に名の通り、お寺の坊で始まった。平安時代の貴族や皇族が中国から入ってきた種々の文化を昇華し、高め、洗練されたものへと発展させていった。その文化を知る僧侶たちが平家から源氏に代わる荒れた時代の中で、心を和めるために、その洗練された文化の継承に大きく貢献していった。その時代に生まれた能、百人一首、茶道、生け花、和装、庭園、家、寺の建築、家具調度品に至るあらゆる面で、洗練された美を追い続ける精神が日本の文化の中で育っていった。それは僧侶から武士や富豪のなかへ広がり、持てはやされていった。

14世紀に活躍した吉田兼好こと兼好法師が書いたエッセイ「徒然草」の中で、「今時の流行りで、ここを切れ、そこを断てといって、自然のままの美を尊ばないのは、なんと浅はかなことよ」と嘆いている。極端な美の追求のために自然のままの姿を人工的な美に置き換えるのを憂い、そんな庭に立って見る月には物の哀れも感じることができないと悲しんだ。それでも美を追求する芸術家はここを切り、そこを断ちと簡素な洗練を追い求めていき、創造性豊かな美を築きあげた。その結果が現代まで続き、能舞台や茶道、生け花に見ることができる。「ここを切れ、そこを断て」という言葉通りに洗練を求めた美の追求の賜物である。

 

コロナ禍の中の私流生け花

その中で、過去の華流の学校の知識を捨て、あるがままの自然を出来るだけ生かした生け花を良しとし、スーパーで毎週買う10ドルか15ドルの安い花束を材料にして、自宅で花を生け始めた。そこを切れ、ここを断ちとはせずに、私流の生け花であり、咲いている花や緑豊かな葉を切り取ることに抵抗を感じ、花に申し訳ないような思いで切れない。その結果が以下のようになった。心に癒しを感じさせ、目を楽しませてくれる。お花の先生から見たら、なんと滅茶苦茶なと苦笑いをされることだろう。芯、添え、流し、控え、胴などという生け花のクラスで習った言葉を知らないわけではないのだが、老人になった兼好法師が新しいやり方を嘆いたように、老人になった私もその気持ちに近くなり、自然をあるがままに、この花を水彩画で描くとしたらこんな風が良いなと思いながら生けている。




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