バルカン半島の旅
2017年夏。シンシナティ市で高校生のAdvanced Placement (AP)日本語試験の採点を9日間担当して帰宅し、2日後にヨーロッパへと出発した。
同年代のイタリア女性たちと話は尽きず
まずイタリアのピサにいる友人を訪問、3日後にはフォロニカ(Follonica)に住む友人を訪ね、その友人と一緒にエルバ(Elba)島に住む友人たちを訪問した。今は博物館になっているナポレオンの家を見たが、私と同年輩の女性4人が語るそれぞれの人生の話はもっと面白かった。 戦後のイタリアで高校3年プラス2年のカレッジという教育を寮住まいで過ごしたこと、キャリア、結婚、離婚、子育て。子供たちは仕事のためにミラノ、フランス、アメリカと遠くに住んでいて、家では90代になっている母親の面倒を見ているという境遇にいる彼女らの人生は話すことがたくさんあった。
バルカン半島5カ国巡り
3日後にフォロニカに戻り、2時間電車に乗ってローマ空港に到着。そこからクロアチアに飛び、ドブロニック(Dubrovnik)空港でワシントンDCから来て合流する予定の30代の友人3人を待った。ミュンヘンから到着した彼女たちと一緒にレンタカーを借り、バルカン半島5カ国巡りに出発した。最初の目的地であるクロアチアの Dubrovnikは14世紀の海辺の砦で、日本のアニメ映画「魔女の宅急便」と最近の米テレビ番組 Game of Thronesの舞台になっている町だ。日本、韓国、イタリアの観光客で賑わっていた。
アドリア海はまるで鏡のような表面をした静かな海だ。海辺のレストランで食事中に地元のお祭りのカーニバルの一群が賑やかに通り過ぎるというイベントに偶然に遭遇した。宿泊はいずれもAirbnbを利用。地元の人の生活を見ることができるのと、都会だけでは無く辺鄙な片田舎にも泊まれるからである。
モンテネグロへ
その次は旧ユーゴスラビア・モンテネグロMontenegroという国で、17世紀に立てられたセルビア正教(Serbian Orthodox) のOstrog修道院を訪ねた。修道院は岩の絶壁に押し込まれたように立っていた。細くて曲がりくねった砂利道で急坂を運転するのも大変だったが、帰る時の下り坂はもっと怖かった。人里離れた一軒家で客は私達だけというレストランTres Olivesでは野菜は庭で育てたもの、魚は今朝届いたものという新鮮で超美味しい昼食を午後2時過ぎに3時間以上かけて食べた。で、夕飯はというと夜9時ごろに食べるという段取りだ。その夜は片田舎の広々とした民家に泊まり、そこは母親と息子の二人が経営していた。朝食はおばさんが育てた野菜と道路傍で買った果物とコーヒーだった。
次はアルバニアで、国境の検査はとても楽で驚いた。モンテネグロのPodgoricaでは橋の下にあり、今は本屋になっている昔のトルコ風呂の遺跡を訪ねた。午後はKormanという水力発電所のある山奥の民家に泊まるために獣道を2時間近く歩いて登った。車は湖畔の駐車場に残した。アルバニアは密入国する人を捕まえるために大小の道、国道などに多くのチェックポイントがあり警官が車を止めていた。
次の日はマセドニアにあるオーリド湖畔に立つ、17世紀に建てられた小さな教会St John Kaneoを訪ねた。この教会は映画のシーンでも有名である。韓国人の観光客の一団が教会の中を一杯にしていた。
ブルガリアの荘厳な修道院
7月8日は最後の国ブルガリアに向かった。途中で丘の上にある牧場で昼食を食べるために車を道路脇に止めて丘を登った。ブルガリアはEUに属している。道路と道路標識が急に良くなり、アメリカやヨーロッパの企業の看板があちこちに見え始めた。
夜はRila Monastry修道院に泊まる予定だったが到着時間が遅れたため、修道院の裏にあるホテルに急遽変更した。Rila修道院は、かつてスペインのコルドバで見た教会を思い起こさせた。
次の日はブルガリアの首都ソフィア(Sophia)に到着。私はホテルにチェックインし、他の四人は2軒のAirbnbに分かれて宿泊した。有名な国教会とロシア正教の教会を訪ねた。その真ん前にバニークラブというこれも有名なナイトクラブがあり、その隣には大きな寿司レストランがあった。夕食は市内のレストランで食べたが、私は一足先にタクシーでホテルに戻って休んだ。
ブルガリア・ソフィア空港から帰国
午前11時までにレンタカーを返すためにソフィア空港に行ったが、レンタカーの事務所が見当たらない。あちこち探し回って、やっと小さな表示が壁に貼ってあるのを見つけた。車を止め、鍵を中に入れてドアを閉めて、Eメールで報告するというやり方で、必要事項はタンクを満タンにしておく事だけだった。空港内でやっとお土産を買う時間を見つけた。ちなみにこのバルカン半島での滞在にかかった費用は飛行機代を除いて一人380ドルという安さであった。
ミュンヘンで乗り換える便でDCに戻った。
時差ボケと疲労回復に一週間を費やし、アラスカへの次の旅行の準備をした。その後も、シカゴに住む娘の家族へ会いに行き、殆ど家にいなかった夏になった。
1943年東京生まれ。1967年シアトルにあるUniversity of Washingtonに編入。1987年、10 年住んだアラスカ州からメリーランド州に移り、2人の子は同州ベセスダのウィットマン (Walt Whitman) 高校とブラッドリー小学校にそれぞれ入学した。1998年から現在までウィットマン高校で日本語教師として勤める。1991年に離婚。2012年にはTowson UniversityでSpecial education修士号を取得。2015年、外務大臣賞を受賞。JAケアファンドの設立に参加し、会長も務めた。2016年にはワシントンDCとその近郊に住む日本人高齢者支援グループSeptember House MAJを立ち上げ、非営利団体(NPO)となる。September House MAJは政府・個人などからの援助を受け、DC近辺の高齢者の支援活動を行っている。