日本再発見―転換期の歴史に触れた旅(長州編)

2023年11月末からクリスマス前まで、晩秋、初冬の日本を旅した。コロナ明けの2022年5月、2年半ぶりに帰国して以来の日本であった。前回は日本の歴史の転換期に熾烈な戦いが繰り広げられた会津若松と函館を訪問した。大政奉還から明治維新に向けて、旧幕府軍と新政府軍の最後の戦いとなった戊辰戦争の地では、徳川幕府のために戦って散った若い命や、倒幕と新しい日本に期待を込めて戦った人々に思いを馳せた。その旅に関してはVIEWSの2022年夏号をご参照頂きたい。

その旅の後、幕府と対峙した薩摩、長州、土佐の有志に関する本を読み漁り、尊王攘夷から明治維新に導いた西郷隆盛、高杉晋作、坂本龍馬などの有志の抱いた新しい日本に関するビジョンに惹かれていった。そして、2023年12月初め、漸く念願の明治維新の数々の立役者を生んだ長州(山口県)を友人と共に旅することができた。260年余も続いた徳川幕府の封建社会から、日本の近代化への道を開き、新しい政府の重鎮として活躍した長州出身の「政治家」の息吹を感じる旅であった。

首相8人を輩出した長州と吉田松陰の精神

松陰神社入口

松陰神社入口

1986年まで千円札の「顔」として流通していた初代内閣総理大臣の伊藤博文首相から、凶弾に倒れた安倍晋三元首相まで、長州(現在の山口県)出身の宰相は8人もいる。これは東京都に次ぐ全国第二の首相輩出数である。新政府の要職が、薩摩と長州出身の有志で固められていたことは有名であるが、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文などは、先駆的な長州の思想家・教育者の吉田松陰が講義をしていた「松下村塾(しょうかそんじゅく)」の門下生でもあった。さらに、伊藤博文に続く長州出身の首相である山縣有朋と桂太郎は吉田松陰が教鞭を執った長州藩の藩校「明倫館」の出身である。同じく、薩長連盟によって倒幕を成し遂げ、新政府では廃藩置県を実現した木戸孝允も明倫館で松陰から兵学を学んでいる。これらの長州出身のリーダーには、幕末に果敢にも世界の中の日本を語った教育者、吉田松陰の精神が流れているのであろう。

松下村塾

松下村塾

今回の旅では、萩市の松陰神社境内に現存する松下村塾舎を訪れた。安政の大獄により、29歳で死刑に処された吉田松陰が実際に松下村塾で教えていたのは僅か1年余である。しかし、松陰はあらゆる機会に、たとえ幽囚の身となっても、獄中で論語や「孟子」の講読などの教育を施し、自らの所感、批評、意見を「講孟余話」としてまとめた。また、この獄中で密航しようとした動機とその思想的背景を「幽囚録」に記している。このように松陰による書物や名言は多く残されており、長州は松陰の思想や教えを受け継いだ多くの俊英を輩出した。松下村塾では、身分に拘わりなく学びを求める多くの若者が、儒学、兵学、史学などを始めとした広範な学問を学んだ。塾生は講義を聞くだけではなく、活発な議論を繰り広げたという。塾舎をのぞくと、8畳一間にひしめき、外まで溢れた80人余の若者が、松陰の話に熱心に耳を傾け、議論する様子が目に浮かぶようであった。この塾舎は2015年にユネスコの世界遺産として登録されている。

80人もの子弟がひしめいて学んだ8畳間

80人もの子弟がひしめいて学んだ8畳間

吉田松陰の短い生涯がこの地に、また幕末の日本に与えた影響は計り知れない。萩市の博物館のご年配の学芸員は、閉館前の1時間余を費やして、唯一の見学者であった私たちに松陰の生い立ち、人となりを熱っぽく語ってくれた。同氏の話では、松陰は自らも貧しい半農半士の下級武士の次男であったが、学問に熱心な家系であったという。6歳の時、山鹿流兵学師範であった吉田家の養子に入り、10歳から藩校である明倫館の兵学師範として教壇に立った。11歳にして、藩主・毛利敬親に「武教全書」を講義し、その才能が認められた。強い好奇心の持ち主で、萩にとどまらず、日本各地を遊歴し、萩藩領の日本海沿岸を防備状況視察のため旅している。熊本から青森まで総距離は1万3000キロに及ぶという。江戸では、オランダ語に精通した、現代で言う安全保障の専門家である佐久間象山にも師事している。通行手形なしで地方に出掛けて脱藩したり、ロシア船で密航しようとしたり、ペリー艦隊の来航の際には、艦隊に乗船して渡航を嘆願するなどの大胆な行動によってその実践力を発揮した。そのため萩の獄屋敷に幽閉されるが、前述のように獄内で孟子の講義など教育活動を行い、囚人の士気を高めたとのことである。

吉田松陰の「学びの道」

松陰神社の境内には、吉田松陰語録が刻まれた25本の柱が並ぶ「学びの道」という小道がある。その名言を噛みしめながら、未だ紅葉の残る静かな境内を歩いてみると、吉田松陰の精神が伝わってくるように感じる。

「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし」
「学問とは、人間はいかに生きていくべきかを学ぶものだ」
「 過ちがないことではなく、過ちを改めることを重んじよ」
「教えるの語源は『愛しむ』」
「奪うことができないものは志である。滅びないのはその働きである」
「死して不朽の見込みあらばいつでも死すべし、生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」

長州と会津

幕末の混乱期に、京都で会津藩の御預となった新選組が長州藩士を仇として右に左に切りつけ、池田屋の変を起こし、それが禁門の変に発展した経緯は、時代劇としてテレビドラマや映画になっているので、ご覧になった読者も多いであろう。同時に、戊辰戦争で旧幕府軍が惨敗し、多くの会津藩士、新選組が殺害され、白虎隊などの悲劇が起こったことも有名である。故安倍元首相が、2007年の福島県会津若松市での参議院の福島補選の応援演説で、「先輩がご迷惑をおかけしたことをお詫びしなければいけない」と、戊辰戦争における政府軍に対する会津藩の恨みを考慮した発言したことはニュースになった。また明治の新しい政府では、薩長のリーダーは要職に就いたが、会津藩は取り潰しとなり苦渋をなめた。一方、京都で旧幕府軍や新選組に多くの藩士を殺戮された長州の恨みは今日まで続くとも言われている。

それほど根深い歴史的背景がある会津若松と萩であるが、それは各々の家訓にも現れている。会津藩松平家の家訓は「徳川家に忠勤、忠義を尽くさなければならない」と、徳川幕府への忠節を掲げている。一方、長州藩の毛利元就による家訓には、家臣を大切にという基本方針が謳われており、家臣も「殿様」を大切にした。その絆の強さ、団結力が長州藩の特色だったと言われる。その背景には、関ケ原の戦いで密約を反故にされたことを恨む反幕府の精神があると言われる。

長州は太平洋に続く瀬戸内海、そして日本海に面する重要な位置にあり、鎖国時代も下関を通して外国との非公式な交易があった。幕末に攘夷論を翳して薩英戦争を起こした薩摩藩と同じく、英米仏蘭の四国連合艦隊に戦いを挑んで惨敗した経験を基に、日本がいつまでも井の中の蛙であるべきでないこと、強力な統一国家を作るべきであることを知っていた藩でもある。徳川幕府に忠誠を誓ってきた会津藩と異なる「国家」を思う武士道精神がある。

さらに、武家の子弟でなければ藩校などで学ぶ機会のなかった時代に、長州では、松下村塾に見られるように、どの子弟にも教育の機会の門戸を開放していた。明治になって士農工商などの封建的身分制を廃し、中央集権国家の建設を目指したのは長州出身のリーダーの発想であった。吉田松陰の語った「志」とその実践主義は明治維新の原動力であったとも言えよう。

萩への旅

筆者による萩焼の作品

筆者による萩焼の作品

萩では、有名な萩焼の作品つくりに挑戦した。初めて使う轆轤(ろくろ)は意外に難しく、先生の指導の下、なんとか作品らしいものが完成した。

萩焼は、約400年以上前に、萩藩主毛利輝元が、朝鮮から渡来した李勺光と李敬に命じ、毛利家の御用窯として開かせたのが発祥とされている。茶道において「一楽(信楽焼)、二萩(萩焼)、三唐津(唐津焼)」と言われるように、萩焼は高く評価されてきた抹茶茶碗の一つである。釉薬(うわぐすり)や焼成の炎、焼き物の素材などの具合により、意図せず焼き上がりの色が変わる「窯変」も起こるため、焼き上がるまで色が分からないのも特徴である。また、萩焼は土が柔らかく、吸水性が豊かで茶が浸透し易いため、長年使用しているとわずかな隙間から、中身が染み出て色が変化する。「萩焼の七化け」とも言われるそうだ。高校時代、初めてのアルバイト代で、両親に萩焼の湯飲みを贈ったことがある。両親はその夫婦湯飲みを30年近く愛用し、その色の変化を誇っていたことを思い出す。

私たちが作成した作品の火入れは2月に予定されており、未だ完成品を見るに至っていないが、どんな化け方をするか楽しみだ。

角島Gran Vistaの瓦そば

角島Gran Vistaの瓦そば

萩に行くのは下関までは山陽新幹線で簡単に移動できるのだが、その後はローカル線の数が少なく、車以外での移動は意外に難しい。友人の取り計らいで、私たちは下関からレンタカーで萩に向かった。途中、角島大橋を渡って角島に立ち寄り、島の最東にあるグラン・ビスタというレストランで山口県名物の「瓦そば」を楽しんだ。さらに高台にある元乃隅神社からは、青い水平線と白いしぶき、100本以上並ぶ赤い鳥居、海いっぱい拡がる空と白い雲という壮観なパノラマが一望できる。

2年がかりの幕末の歴史の旅であったが、来年はNHK大河ドラマに因んで、源氏物語の世界に浸ってみようかと、早速本を買い込んでワシントンに戻った。

本州と角島(つのしま)を結ぶ角島大橋

本州と角島(つのしま)を結ぶ角島大橋

元乃隅神社からの眺め

元乃隅神社からの眺め

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