Be yourselfの人生

母(右)の誕生日を一緒に祝う(2012年)

母(右)の誕生日を一緒に祝う(2012年)

Eleanor Roosevelt 大統領夫人がかつてこう言ったそうです。

“Live your life imaginatively, excitedly. Be yourself. Be the best version of yourself while you are here. It’s not going to be for very long.”

Be yourself と言う言葉はよく聞きますが、いったいどういう意味なのか今まであまり深く考えませんでした。人は皆それぞれ生まれつきの個性と宿命を持ち、各々の道を歩くものだと思っていました。ただ最近になって、私の両親は正にRoosevelt夫人の言う自分なりのBe yourselfな人生を歩んだのではないかと思うようになりました。

父も母も既に他界しましたので、もう彼らの若き日の話は聞くことができません。以前に話してくれた印象深い話だけは記憶に残っています。一緒にいる時にもっと色々聞いておけば良かったと思いますが、元気な時は皆若い時の話はしないのかもしれません。私もこれから子供達にもっと昔の話をしなければと思うのですが、なかなかきっかけが見つかりません。両親も多分そうだったのだろうと思います。

台湾の激動の時代を生きた両親

今は亡き父と母は幸せなのだといつも子供心に思っていました。両親は20代に恋愛結婚し、60数年一緒に生活し、お互い尊敬し合う睦まじい夫婦でした。父は外交官としての仕事を誇りに思いながら40年以上勤めました。そんな父が元気に職場に出かける姿、そして帰宅後居間で母とその日の出来事を話し合う姿がとても印象的でした。

父は1926年に台湾で生まれました。彼の両親も台湾人でしたが、その頃は日本統治時代(1895年-1945年) だったので、第二次世界大戦後に彼が成人する前までの20年間ずっと日本教育を受けていました。台中の近くの町で医師だった祖父の長男に生まれ、子供の頃からスポーツは苦手だが読書や音楽が好きだったそうです。長男なので、当然家業を継いで医者の道を歩む事を期待されたのですが、理科系よりも文学が得意なので外交官の道を選び、祖父母をとてもがっかりさせたと何度も聞きました。幸い次男の弟が医学の道に進んでくれたので父は自分の選んだ道を歩く事ができたのです。

終戦後の台湾は色々な意味で激動の時代だったと聞きます。その頃の事は父も母もあまり口にしなかったので、実際どういう生活していたのかは分かりません。ただその時代を体験した人が皆とても苦労したのは確かです。1945年に日本政府が去った後、台湾は中国に返還され、内戦の後台湾に逃れた蒋介石の反共産党の本拠地になったのです。その頃台湾にいた人達は新しい政府と社会制度に適応するだけではなく、生活ががらりと変わったのです。今まで日本語教育を受け日本語が標準語だったのが、今度は北京語を使わなければならなくなったのですから。

両親の結婚写真

両親の結婚写真

母は1930年に中国広東省の汕頭(スワトウ)で生まれましたが、やはり台湾育ちです。幼い頃から日本語しか使わない厳しい家で育ったそうです。終戦後父と同じように北京語を習い始めました。その他に台湾語も喋れるよう努力したのですがなかなか思うように喋れず、一生それが悔しかったようです。女学校卒業後、母は台湾大学で化学部教授の助手として働いていました。父もその頃同じ大学で政治学専攻の学生だったので、化学部の友人のラボを訪ねた時に母に初めて出会い一目惚れしたそうです。その後二人は結婚し、父は学校の教師として勤める傍ら外交官資格試験の準備に専念していました。母の話によると、その頃の筆記試験はペンで書かず墨と筆書きだったので父は大変だったようです。若い父は外交官になるのが夢だったので、必死だったのでしょう。中国語を習い始めてからの数年後の事なので、試験に合格したのが不思議なくらいだったそうで、本人も大いに喜んだに違いありません。

外交官生活の始まりと文化の違い

家族写真(1964年)

家族写真(1964年)

母はいつも「結婚後、国内と国際を含めて27回引っ越しましたよ」と半分憤慨、半分自慢げに話していました。私も渡米後アパートからアパートへと何度も引っ越した経験があるので母の話を聞くたびに、27回はやはり凄いと頷きました。夫婦と娘3人の5人家族でしたが、引っ越し先で家を借りるときの家主の反応が各国違うのが面白かったそうです。日本では「子供3人は多いですねえ」と言われ、台湾では「娘3人で息子はいないのですか」と聞かれる。そしてフィリピンでは「なぜ子供は3人だけなのですか」と質問の違いによってそれぞれのカルチャーが分かります。母は何処に行っても何か欠けているようで困ったそうですが、多分そんな時は父と顔を見合わせて苦笑いしたのでしょう。

東京勤務の頃

東京勤務の頃

父が外交官試験に合格して最初の赴任先は大阪でした。当時父と母は25才と21才。赴任して間もなく姉が生まれました(姉はそれから両親と一緒に台湾、フィリピンや日本に住みましたが、結局小、中学、高校と大学も日本で卒業し、現在も東京住まいです)。 当時、両親は父の職場の領事館と同じビルにある狭いアパートに住みました。他の住民とキッチン共有という窮屈さにもかかわらず二人は若いゆえに夢と希望に胸を膨らませていました。父は新米で雑務も多かったのですが、念願の外交の仕事に夢中で専念しました。母は社交的なので少しずつ友人の輪を広め、回りの人達から育児や他のアドバイスをもらいながら生活をエンジョイしていたのでしょう。

その後父は40年以上外交官生活を続けました。その間日本赴任が一番長く、20年以上住みました。東京の大使館と大阪の領事館、そして日台断交後は亜東関係協会事務所で勤務し日台関係の維持と改善に努力しました。2年前に私が父の遺物を整理した時に、往来の多かった日本人の議員達からの手紙などが見つかりました。仕事上、幅広い人達に接触しなければならなかったのですが、好奇心旺盛な父なのでそれなりにエンジョイしていたのだと思います。子供の頃、父が仕事に熱中する姿が印象的でした。誰もがこういう風に自分の仕事を夢中でするのが当たり前だとさえ思っていました。私は社会人になって初めて必ずしもそうではないことが分かり、父はとてもラッキーだったのだと気付きました。

父と母は色々な事に興味を持つので、変化の多い外交官生活が合っていたのかもしれません。父が外で働いている間、母は家事や育児をこなしながら生花、絵画、料理と古典ギターまで習い、生花師範の資格も取得しました。ストックホルムに住んでいた時は、Ikebana International の支部を設立する為にエネルギーを注ぎました。

父と母は常に全身全力、体当たりで自分たちの道を歩いたのです。二人にもう一度「お疲れ様でした。本当によく頑張りましたね」と言ってあげたい気持ちでいっぱいです。


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