母から贈られた桜の着物でコンサート

Asian American Music Society - Millennium Stageで演奏(ケネディ・センター)

Asian American Music Society – Millennium Stage で演奏(ケネディ・センター)

ワシントンDCのケネディー・センターで着物でのピアノ演奏を頼まれたのは2017年の夏の終わりだった。DCで活動するAsian American Music Society(AAMS)の主催するアジア系音楽家を集めたコンサートで、各自母国の民族衣装をまとって代表的な音楽を演奏する趣向であった。私はそれまで着物で演奏したことなどなかったが、AAMSのメンバーとして喜んでお受けした。実は20数年前、亡き母がワシントンの国際機関に就職したお祝いにと持たせてくれた着物にまだ袖を通してなかったのだ。アメリカに旅立つ我が娘のためにと、ワシントンにふさわしい桜模様の美しい着物を京都から母がわざわざ取り寄せてくれたのに。

私とピアノ

ワシントンでの仕事は広報だったので、大使館や国際機関等の会合に呼ばれる機会も多々あった。でもいつも仕事着で参加していたので、着物を着ることは無かった。プライベートでもそんな機会には恵まれなかった。というのも、その頃私は地元の音楽大学で週末ピアノを勉強しており、練習に忙しく、お昼以外の自由時間はほとんどないという状態だった。

実はピアノは小さい頃から習い、音楽大学進学を考えていた時期もあったが、結局、一般大学に入学してからは、ほとんど弾かなくなった。再びピアノを弾きだすきっかけになったのは、たまたま仕事帰りに立ち寄ったケネディー・センターでのコンサートだった。会場を埋め尽くした聴衆は様々な国、文化、年齢、性別、階層の人々だった。そして私達一人ひとりは音楽をその場で共有することで、一つの共同体になっていったと感じた。

私は音楽の普遍性に心を揺さぶられ、また真剣にピアノを学びたい、音楽で人と繋がりたいと願うようになった。そして思い込みの激しい私は、2014年に40代半ばで大学院で勉強するために仕事を退職するという大胆な人生の方向転換をしてしまったのである。ようやく2017年に音楽で修士号を取得し、これから第二の人生を模索し始める時に、ケネディー・センターで演奏するという光栄な機会に恵まれた。亡き母もさぞかし喜んでくれるだろうと即答し、早速着物の着付けの先生を探すことにした。

知人の紹介でとても優しく、素敵な先生に当日会場までご足労頂き、晴れ着を着せていただくことになった。準備のために着付けに必要なものがあるか確認のメールが先生から送られてきた。しかし私の着物用語の知識は着物、帯、襦袢ぐらいに限られていて、先生がお尋ねになった、襟芯、帯枕、コーリンベルトなどは何のことかさっぱりわからず、母が風呂敷に包んで渡してくれた全ての着付け用具、小物等を写真に撮ってお返事した。先生の「すべて揃っているようですね」、とのお言葉にすっかり安心して当日を迎えた。

着物の着付けにハラハラドキドキ

当日会場で着替えの場所は当然用意されているものと思っていたが、それは甘かった。コンサートホールの女子トイレで着替えるとのこと。早い時間でまだ誰もいなかったし、きれいに掃除してあるので床に敷物をひいて、着物に着替えることにした。着付けが始まり襦袢を着せていただいているときに、とても大切なことをすっかり忘れていたことに気がついた。その着物は私がすらっとしていた随分昔に縫ってあり、ぼてりとした今の中年太りの体には少しどころか、かなり小さくなってしまっていたのだ。そう、かなりの難題を着付けの先生に託してしまったのである。それでも優しい先生は「ちょっと小さいですね、でもなんとかしましょう、頑張りましょう」と頭を悩ませながら工夫を重ねてどうにか綺麗に着付けてくださった。その上「なるべく疲れないように、あまりきつくはしませんでした」というお心遣い、さすがプロである。母の託してくれた着物をようやくお披露目する機会ができて本当に嬉しかった。

ちょっとおかしな浴衣姿で国際交流

これは余談になるが、アメリカで着物を着たのはその時が初めてだが、以前浴衣を着た(?)ことは数回あった。ミシガン州の北端Sault Ste. Marieという小さな町で国際ロータリクラブの交換留学として高校時一年間を過ごした。ある会合でぜひ着物を着てほしいと頼まれた。その頃はまだ簡易浴衣セットなどなく、どうせ一人で着ることができないのだろうから、着物はおろか浴衣も持参していなかった。唯一着物らしきものは、お土産用に持参した両親の経営していたビジネスホテルの浴衣。仕方なくそれを着て会合に出た。その浴衣にはホテルの名前が模様で書いてあり、ユーモアセンスのあるアメリカ人紳士にホリデー・インと書かれているのかと笑顔で言われたのを良く覚えている。

そんな話を聞いた母はさすがにギョッとし、その翌週には航空便で浴衣セットが早速送られてきた。ちょうど独立記念日のパレードに呼ばれていたので、その浴衣で参加する事にした。もちろん帯の結び方はわからなかったので、可愛らしく前でリボン結びでごまかした。パレードではキャデラックのオープンカーに町のミスコン優勝者と乗車し、笑顔で観客に手を振った。スーパースターになったような気分だった。1980年代半ばのことであるが、随分立派なオープンカーで、ミスコンの彼女もその時代風の大きな素敵に派手な髪型だった。写真が無いのが残念だ。

いざ着物でリハーサル、そして本番

さてドレスリハーサルで、初めて着物で演奏してみた。準備した曲は平井康三郎の幻想曲『さくら、さくら』。あの簡素なさくらのメロディが、可憐な響き、軽快な祭りの宴の歌、そして大空に美しく舞った花火に変幻し、最後には哀愁が漂う静寂のみを残すという幽玄の世界を思わせる名曲である。私はこの曲を弾くときに一日で四季を味わえると言われるワシントンの過酷な天気を相手に、懸命に短い命を輝かせる桜の美しく、逞しい物語を奏でようと努めている。リハーサルでは思ったより袖が気にならず楽に弾くことができ、スタッフにも素晴らしい演奏と褒められ、安心し本番が楽しみになってきた。でも実はそれからが大変だった。

リハーサル後本番まで4時間待ちで、着替えるわけには行かず、そのまま着物で過ごした。冷房が効いている館内でもやはり夏、幾重も衣をまとっているので汗がダラダラ。また椅子にゆっくり腰掛けると着崩れしてしまわないかと心配で落ちついては休めなかった。そんなわけで本番開始の夕方6時にはかなり疲労した状況で本番を迎えた。その上、本番では裏方が演奏中に大声で打ち合わせをするというハプニングに見舞われ、集中力を失い、自分が満足できる演奏ができなかった。その日のコンサートはグループ演奏が大半だったので、私のソロ演奏の時はスタッフがおそらく油断してしまったのだろう。(この時のコンサートAsian American Music Society – Millennium Stage はビデオがあり、私の演奏部分は5:50くらいからご覧になれます)。

演奏後、応援に駆けつけてくれた友人たちと記念撮影

演奏後、応援に駆けつけてくれた友人たちと記念撮影

思い通りの演奏ができなかったと一人で落ち込んでいたのは束の間、母の着物のおかげでコンサートが終わるや否や、色々な方々が一緒に写真を撮りたいとアプローチしてくださった。皆さんの「素晴らしい音楽をありがとう、着物は本当に優雅で美しい」という言葉に励まされた。その上応援に駆けつけてくれた友人たちともこうやって記念写真も取れた。とても素敵な人生の思い出になった。

ただひとつ残念だったのは、私の夫が病気でコンサートに来られなかったこと。夫はロシア出身のチェロ奏者で、日本でもよく演奏活動を行い、ピアニストの宮沢明子さんとレコードを製作したこともあった。日本文化をこよなく愛していた夫は、私の桜の着物を着ての晴れ舞台を心待ちにしていた。またいずれ機会があるだろうと思っていたが、残念ながら夫は2020年10月に他界した。今度こそ愛する亡き夫のために、また着物を着てどこかでピアノを演奏したいと考えている。夫はきっと母と一緒に天国でそんな私を優しく見守り応援していてくれていると信じている。頑張らなきゃ。


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